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リチャード・ボイル (第3代バーリントン伯爵) : ミニ英和和英辞書
リチャード・ボイル (第3代バーリントン伯爵)[はくしゃく]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [だい]
 (n,pref) ordinal
: [よ, しろ]
 【名詞】 1. world 2. society 3. age 4. generation 
リントン : [りんとん]
 (n) Linton (Japanese brand of haloperidol), (n) Linton (Japanese brand of haloperidol)
: [はく]
 【名詞】 1. count 2. earl 3. eldest brother 4. uncle 5. chief official 
伯爵 : [はくしゃく]
 【名詞】 1. count 2. earl 

リチャード・ボイル (第3代バーリントン伯爵) : ウィキペディア日本語版
リチャード・ボイル (第3代バーリントン伯爵)[はくしゃく]

リチャード・ボイル (第3代バーリントン伯爵) (リチャード・ボイル (だい3だいバーリントンはくしゃく)、The Rt. Hon.Richard Boyle, 3rd Earl of Burlington,KG,PC、1694年4月25日-1753年12月15日) は、イングランド貴族政治家ガーター勲章勲爵士、枢密顧問官建築家である。チャールズ・ボイル (第2代バーリントン伯爵) (Charles Boyle, 2nd Earl of Burlington、1704年没) (英語版) とジュリアナ・ノエル (Juliana Noel、1672年-1750年) の子としてヨークシャーで生まれた。バーリントンは枢密顧問官 (Privy Counsellor)、イギリス貴族院及びアイルランド貴族院 (Irish House of Lords) (英語版) 議員としての地位があったにもかかわらず、政治に関してはあまり興味を示さず、「芸術のアポロン」 (Apollo of the Arts)、「建築家伯爵」 (architect Earl) と呼ばれた。
バーリントンはイギリスとアイルランドにパラディオ様式建築を持ち込んだことで有名であり、彼の主要な作品に、バーリントンハウスウェストミンスター・スクールチジックハウス、ノースウィックパーク (Northwick Park) (英語版) 等がある。
ボイルの法則で知られるロバート・ボイル (Robert Boyle、1627年-1691年) は曾祖父リチャード・ボイル (初代バーリントン伯爵) (Richard Boyle, 1st Earl of Burlington、1612年-1698年) (英語版) の弟である〔Lodge, John, Keeper of the Rolls, & Archdall, Mervyn, A.M., Rector of Slane, County Meath, and Member of the Royal Irish Academy, ''The Peerage of Ireland'', Dublin, 1789, vol. 1, pp. 169–174.〕。
== 生涯 ==
バーリントンは、ヨークシャーの裕福なアングロ・アイリッシュ (Anglo-Irish) (英語版)貴族の家系に生まれた。「建築家伯爵」として知られており、イギリス、アイルランド両王国でパラディオ様式建築の復興に尽力した。彼は1704年2月、9歳の時に父の死に伴って爵位とヨークシャー及びアイルランドの広大な不動産を受け継いだ。1715年に成人するまでの間、バーリントンのイギリス、アイルランドの土地と政治的権限は彼に替わって、彼の母親で後見人であるジュリアナ未亡人が管理した〔Wilson, Rachel, Elite Women in Ascendancy Ireland, 1690-1745: Imitation and Innovation (Boydell and Brewer, Woodbridge, 2015). ISBN 978-1783270392〕。バーリントンは幼児期から音楽を好み、ヘンデル (Georg Friedrich Händel、1685年-1759年) はバーリントンハウス に滞在中彼に「タセオ」 (''Teseo'') (英語版) 、「ガウラのアマティージ」 (''Amadigi di Gaula'') (英語版) の2曲のオペラを捧げた。ホーキンス (John Hawkins、1719年-1789年、イギリスの作家) (英語版) によると、フランチェスコ・バルサンティ (Francesco Barsanti、1690年-1772年)は「リコーダーのための6つのソナタ Op.1」(''6 Sonatas for Recorder and Continuo Op. 1'') を捧げた。1714年から1719年に行った3回の海外へのグランドツアー (17-18世紀イギリスの裕福な貴族の子弟が、その学業の終了時に行った大規模な国外旅行) と1726年のパリ旅行は、バーリントンの嗜好を開発する契機となった。彼の建築家としての専門的技術 (常に請負石工業者がサポートする) はイギリス貴族の中で突出したものであった。彼は1719年のヴェネトへの旅行中、アンドレーア・パッラーディオ (Andrea Palladio、1508年-1580年、イタリア建築家。) の「建築四書」 (''I quattro libri dell'architettura'') (英語版) を携行し、余白部分に細かな書き込みをした。彼はまた1719年には、当時ステージでのオペラを制作する団体であった王立音楽院 (Royal Academy of Music) (英語版) の主要メンバーの一人であった〔Deutsch, O.E. (1955), Handel. A documentary biography, p. 91. 〕
HANDEL REFERENCE DATABASE 2015年12月24日閲覧〕。

バーリントンは古代ローマ遺跡を詳細に検証したり、あるいは詳細な図面を描くことはせずに、古典的伝統の通訳としてのパッラーディオスカモッツィ (Vincenzo Scamozzi、1548年-1616年、ヴェネツィアの建築家でパッラーディオの後継者) に頼っていた。彼の発想の別の源泉は、収集した図面や、パッラーディオ自身が描いた図面であった。それらの図面はイニゴー・ジョーンズ (Inigo Jones、1573年-1652年、イングランドの建築家) とイニゴーの弟子のジョン・ウェッブ (John Webb、1611年-1672年) (英語版) が所有していたもので、1727年 (一般的には1736年と言われている。) にウィリアム・ケント (William Kent、1685年-1748年、イギリスの建築家) により、ケントとバーリントンによる「''Some Designs of Mr Inigo Jones... with Some Additional Designs''」(イニゴー・ジョーンズ氏のデザインといくつかの追加デザイン) として出版された。パラディオ様式建築、あるいはネオパラディオ様式建築におけるウェッブの重要な役割は20世紀まで理解されなかった。バーリントンが所有していたパッラーディオの図面には、ウィトルウィウス (Marcus Vitruvius Pollio、紀元前70年頃の共和制ローマ期の建築家) 以降の古代ローマ建築物復興のためのものが数多く含まれており、彼はそれらを出版する予定であった。一方1723年、バーリントンは図面の中の宮殿の外観を、旧バーリントン通り (Old Burlington Street) にあるジョージ・ウェイド将軍 (George Wade、1673年-1748年、イギリス海軍将校) のロンドン宅に採用し、それは1725年発行のコーレン・キャンベル (Colen Campbell、1676年-1729年、スコットランドの建築家) の「ウィトルウィウス・ブリタニクス」(''Vitruvius Britannicus''iii) に描かれた。
バーリントンの最初のプロジェクトは、彼自身のロンドンの邸宅であるバーリントンハウスであった。彼は1719年に欧州旅行から帰ってくると、バロック様式の建築家ジェームズ・ギブズ (James Gibbs、1682年-1754年、イギリスの建築家) (英語版) を辞めさせ、スコットランドの建築家コーレン・キャンベル歴史画家から転身したインテリア・デザイナーのウィリアム・ケントを雇用した。ピカデリーの目立つ場所にあるバーリントンハウスの中庭のある正面外観は、ネオパラディオ主義 (neo-Palladianism) が初めて達成されたことを世間に発表するものであった。
1720年代、バーリントンとキャンベルは別れ、バーリントンは、ネオパラディオ主義第2世代の主要な建築家として開花していた若いヘンリ・フリッツクロフト (Henry Flitcroft、1697年-1769年、イングランドの建築家) 、2番手のパラディオ主義建築家ダニエル・ギャレット (Daniel Garrett、-1753年、イギリスの建築家) (英語版) 、及びその他の立案者によるプロジェクト「バーリントン・ハリー」を支援した。
1730年代の早い時期にはパラディオ様式はイギリスのカントリーハウスあるいは公共の建物において、一般的に受け入れられていた。バーリントンの残りの人生は、ホレス・ウォルポール (Horace Walpole、1717年-1797年、イギリスの政治家、小説家) の言によると「芸術のアポロン」(Apollo of the arts) であり、ウィリアム・ケントにとっては「適切な司祭」(proper priest) であった。
1739年、バーリントンはロンドン初の孤児院であるファウンドリング・ホスピタル (Foundling Hospital) (英語版) と呼ばれる新しい慈善団体の設立に関与していた。彼は慈善団体の代表だったが、1742年にブルームスベリーに完成した子どもたちのための大きな建物の建設計画には正式には参加しなかった。慈善事業として建設を引き受けたのはドイツ人建築家セオドレ・ヤコブセン (Theodore Jacobsen、1772年没) (独語版) であった。
バーリントンのプロジェクトの多くは改築や増築、あるいは火災、あるいは都市部の拡大に伴う取り壊しなどによる問題を抱えている。多くの場合彼のアイディアは突出したものであった。例えばマシュー・ブレッティンガム (Matthew Brettingham、1699年-1769年) は、その著作「''The Plans and Elevations of the late Earl of Leicester's House at Holkham''」の中で、ホウカムホール (Holkham Hall) は、「基本的なアイディアは最初ウィリアム・ケント氏のサポートを受けてバーリントン伯爵とレスター伯爵 (Thomas Coke, 1st Earl of Leicester、1697年–1759年) (英語版) が出した。」と思い起こし〔Colvin, H. M. "A Biographical Dictionary of English Architects, 1660-1840". Cambridge, MA: Harvard University Press, 1954. p. 91.〕、特に柱廊と北の化粧室の天井の製作者としてバーリントンの名前が記されている。
1751年、バーリントンはポツダムのフランチェスコ・アルガロッティ (Francesco Algarotti、1712年-1764年、ヴェネツィア博学者) にウィトルウィウスの本と一緒に彼の図面の一部を送っている〔MacDonogh, G. (1999) Frederick the Great, p. 192, 233–234.〕。
バーリントンの義理の息子デヴォンシャー公爵が承継した彼の建築図面はチャッツワースハウス (Chatsworth House、イギリス、ダービーシャーにある邸宅で1549年以来キャベンディッシュ家のファミリーハウス) (英語版)) に保存されている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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